異教まみれのキリスト教?–教会のルーツを探究する-
¥ 2,200 (税別)
在庫僅少(入荷予定あり)
キリスト教界に衝撃を与えた話題作がついに日本語化!
もし、現代の教会で行われている慣習や儀式の多くが、実は聖書に基づくものではなく、異教文化から取り入れられたものだとしたら・・・。
本書では、歴史的証拠に基づき、教会建築、礼拝形式、説教、聖職者制度、什一献金、洗礼、聖餐式、日曜学校など、私たちが当然と思っている教会の慣習が、実は聖書的な裏付けを持っていないことを明らかにします。 教会のあり方について深く考えさせ、聖書に立ち返って教会を再構築する必要性を示唆する、挑戦的な一冊です。
説明
- 私たちは本当に聖書的だったのか?
- 教会堂 - 受け継がれる建築物コンプレックス
- 礼拝の形式 - 型にはまった日曜の朝
- 説教 - プロテスタントの最も神聖な偶像
- 牧師 - 全てのメンバーが機能することを阻む障害
- 日曜朝の衣装 - 問題を隠すための衣
- 賛美担当牧師 - 音楽専門の聖職者
- 什一献金と聖職者の給与 - 教会のふところ事情
- バプテスマと聖餐式 - 希薄になった礼典
- キリスト教教育 - 膨張しすぎた頭
- 新約聖書の再考察 - 聖書をジグソーパズルにしない
- 救世主の再発見 - 革命家イエス
【本書の目的】
本書はあくまで問題提起を行うものであり、教会の慣習を全否定するものではありません。
聖書に立ち返り、教会のあり方を再考するためのきっかけとなることを願っています。

追加情報
| タイトル | 異教まみれのキリスト教?–教会のルーツを探究する- |
|---|---|
| 原題 | Pagan Christianity?: Exploring the Roots of Our Church Practices |
| 著者 | フランク・ヴィオラ|ジョージ・バーナ |
| 翻訳者 | 松田 健太郎 |
| サイズ | A5判 |
| ページ数 | 276ページ |
| 出版 | RACネットワーク(文脈化研究会) |
| 発売日 | 2024年8月1日 |
| 定価 | 2,200円+税|税込 2,420円 |
| ISBN | 978-4-9901335-1-1 |
| 言語 | 日本語 |


はるちゃん –
「異教まみれのキリスト教!?」を読む前の私と、読んだ後の私の比較をここに簡単に書きます。
読む前
救われたといっても、そのあとの自分自身の信仰の成長について「このままでいいのか」と漠然とした思いがありました。
日曜日に行われる礼拝の説教を聞いて、同じ聖書箇所でも、語る牧師によっては真逆の話になることもあり(特にイエスさまのたとえ�話の解釈が顕著)「一体どっちが本当なのか」と混乱したことがよくありました。
元のメッセージを表示しない
教会の礼拝に出席していないクリスチャンのことを、「信仰が弱っている」「迷っている」と否定的に見ていて、「また一緒に礼拝できるように(=その人が教会に来るように)」と祈っていました。
一応日曜日に礼拝に行き、聖書を毎日読んでいましたが、そういうことをしている時間と、それ以外の時間との間に大きな差がありました。(いわゆる「サンデークリスチャン」のような感じです)
そして、上記のこと全てに対してなんとなくあきらめたくないのに、どうしたら良いのかわからないと悶々としていました。
読んだ後
救われた後の信仰生活について、毎週日曜日の礼拝と日ごろの聖書通読だけで信仰が養われるのではなく、神様に求める中で与えられる様々なクリスチャンとの交わりや、聖霊との交わりが必要だと実感するようになりました。
特に、聖書や祈りを通して、聖霊に直接聞く・語ることがとても大切だと思い、成長させてくださるのは神様だということを実感しています。
牧師によって聖書の解き明かしがされているときに、「これは、神様が、この人に語られたことをこの人が語っているのだから、私の読み方と違っていても気にしない」と、少し距離を置いて聞くことができるようになりました。
なので、説教を聞いたときに「どっちが本当なのか」と、気にすることがなくなり、
その分、自分自身でも聖霊に聞きつつ、聖書を読んでいくことが大切だと思うようになりました。
簡単に言うと、信仰生活で「鼻から息のあるものに頼るのをやめよ」と神様から言われたと思っています。
毎週日曜日に、決められた場所で、決められた時間に礼拝をすることに対しても、以前より絶対視しなくなったし、そういう礼拝にしばらく来ていない人に対しても、「別の形で神さまとつながっていられるように」と祈るようになりました。